la-musicaの美の採掘坑

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カンディンスキー「即興:洪水」における色彩の洪水について (絵の採掘坑 4)

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ドイツ/ミュンヘンにある市立レンバッハハウス美術館は、芸術家グループ「青騎士」の作品群の他に類をみないコレクションで名高い。

ここでは、「青騎士」のメンバーであったガブリエレ・ミュンターの寄贈による作品によって、「青騎士」時代のカンディンスキーが具象から抽象へと進んでいく軌跡を辿ることができる。

同美術館収蔵のカンディンスキー作品の中から「即興:洪水」を取り上げ、その魅力を語ってみたい。

「即興:洪水」は、ロシア/サンクト・ペテルブルクのエルミタージュ美術館に収蔵されている大作「コンポジションVI」のための下絵として数多く描かれた作品の一つで、1913年に描かれた。

この絵の生成モティーフはノアの箱舟の洪水であり、そのイメージを描いたガラス絵を出発点としている。

この「即興:洪水」を初めて意識して見たのは、1996年1月にレンバッハハウス美術館の展覧会ホールで開催されていたカンディンスキーの回顧展を訪れた際である。

それ以前にも同美術館には何度か訪れていて、この作品の前も通っていたはずなのだが、印象に残っていたのは別の作品であった。

それでは、この時「即興:洪水」の何が自分をとらえたのか。

“対象がない。かたちもない。ただ色だけがある。”

この絵の魅力を一言で言い表そうとすればこう言えるのではないか。

その時、この絵の前に立って感じたのは、何か柔らかいものに包まれるような心地よさであった。

そのゆったりとした気分の源は、様々な色が自然に溶け合い踊っている様子である。

そして、その溶け合う色彩が作り出す、輪郭のあいまいな「形にならないかたち」によって、ただ「色彩の渦」の中に身を委ねたい気分にさせられる。

画面には、様々な色が混じり合った色鮮やかな固まりが幾つも踊り、その間を濃紺や黒が埋めている。

“洪水”のカタストロフィ的な印象は全く受けず、むしろ寛いだ気分へと誘われる。

出発点となったガラス絵には、裸婦や動物、渦巻く波などが認識できるかたちで描かれていた。

それが「即興:洪水」では対象が色彩の固まりの中に溶け込んでいく。

更に「コンポジションVI」では、色彩のバリエーションが簡素化されて白が前面に出てくるとともに、黒い太線で幾何学的なかたちが大胆に切り取られていく。

個人的には、緻密に構成し時間をかけて練り上げられた「コンポジション」のような大作よりも、内面に映る感情や心象を色や線におきかえて画面上で自由に展開させた「即興」のような作品によりシンパシーを感じる。

それは音楽的な印象の違いにもよるのかもしれない。

コンポジション」が“オーケストラによるシンフォニー”の重厚な印象を与えるのに対して、「即興(インプロヴィゼーション)」は“ジャズの自由な演奏”を、ピアノ・トリオで演奏者が交互にアドリブ・ソロを取りインタープレイする様子を思い浮かばせるからである。

カンディンスキーは、ロシア時代を経てバウハウス時代に「点、線、面」の幾何学記号を分析・理論化し、円や三角、弧や直線など輪郭のはっきりした“形体”を描く抽象画へ向かうようになるが、「青騎士」時代には、対象に取って代わるものとして、より“色彩”にこだわっていたのだと思う。

そして、自分は彼の「青騎士」時代の作品により魅力を感じている。

2003年にレンバッハハウス美術館を再訪する機会があり、「即興:洪水」を含めたカンディンスキーの作品を再度常設展で見た。

再会への期待が強すぎたのか、「即興:洪水」の印象はあまり強くなく、この時は「印象:峡谷」のような明るい作品がより印象的に映った。

その理由について、その後暫く考えていたのだが、ある時、“観賞した環境”によることに思い至った。

1996年の回顧展はクンストバウという特別展用のホールで開催されていた。このホールは地下鉄ケーニヒスプラッツ駅隣りの地下スペースにあり、抑えた照明の下で作品を観賞することになる。

一方、常設展を展示する本館は19世紀貴族の瀟洒な館で、自然光をふんだんに取り入れた明るい展示室に作品が掛かっている。

あの時、「即興:洪水」の華やかな色彩の隙間を埋める“黒”が、地下ホールの抑えた照明の下で、観る者の気持ちを沈静化させる効果をもたらしていたのだと思う。

あの時この作品に共鳴した自分が、どのような環境にあって、どのような事に興味を持ち、何を考えていたのか、はっきりとは思い出すことができない。

しかしながら、あの時感じた「即興:洪水」の質感は今でもはっきりと思い出すことができるのである。