la-musicaの美の採掘坑

自然、美術、音楽、訪れた場所などについて、「スゴイ!」「きれいだな...」「いいね」と感じたものごとを書き留めています。皆さんの心に留まる記事がひとつでもあればうれしいです。

三蔵法師玄奘と薬師寺 (永遠の場所 30)

今回の京都・奈良旅行に際しては、息子が「西遊記」を読み始めていたことも一つのきっかけとなり、玄奘三蔵の遺骨が分骨され祀られている奈良・薬師寺を訪れたいと考えていました。

第一の目的は、日本画家・平山郁夫玄奘三蔵の苦難の記録である「大唐西域記」に画題を求めて描き上げ、薬師寺玄奘三蔵院に納められた『大唐西域壁画』を観ることです。

2011年1月から3月にかけて「仏教伝来の道:平山郁夫文化財保護」という特別展が東京国立博物館で開催され、平山郁夫画伯の『大唐西域壁画』が初めて寺外で展示されました。

その特別展で壁画を観てそのスケールに圧倒され、又、平山画伯と玄奘三蔵薬師寺との関係、壁画が完成し入魂開眼されるまでの長い道のりを知り、是非いつか薬師寺玄奘三蔵院伽藍で『大唐西域壁画』を観てみたいと思っていました。

偶然なことに、我々が訪れようとした時期に京都の龍谷ミュージアムで「三蔵法師玄奘」展が開催されていることを知り、奈良・薬師寺を訪問する前に観ておきたいと考え、龍谷ミュージアムの「三蔵法師玄奘」展を訪ねました。

(「三蔵法師玄奘」展チラシ)

玄奘展

玄奘三蔵は、『西遊記』に登場する「三蔵法師」のモデルとなった中国唐時代の僧侶です。

当時まだ中国には伝わっていなかった仏教の経典を求めて天竺(インド)に赴き、同地での17年間にわたる勉学を終えて帰国した後は多くの経典の翻訳に携わりました。

生涯に旅した距離は3万5千キロ以上(※地球一周は約4万キロ)、生涯に訳した経典は75部1335巻とされています。

玄奘が伝えた教えはその弟子慈恩大師による法相宗の開創につながり現在に続いています。

薬師寺は現在、興福寺とともに法相宗大本山であり玄奘を始祖として篤く崇敬。

玄奘三蔵院伽藍中央の玄奘塔には玄奘三蔵の頂骨が真身舎利として奉安され、須弥壇には玄奘三蔵訳経像が祀られ、そして大唐西域壁画殿には平山画伯の壁画が絵身舎利として祀られています。

薬師寺は、今回の龍谷ミュージアムでの「三蔵法師玄奘」展の主催者に名を連ね、国宝慈恩大師像、重文木造十一面観音菩薩立像、木造玄奘三蔵坐像など、数多くの宝物を出展すると同時に、展覧会の会期中、薬師寺僧侶による講話が毎日企画されていました。

我々がミュージアムに着いたのはちょうど講話が始まるタイミングでしたのでお話を聞かせて頂きました。

玄奘さん」の人物像、成し遂げられた事、教えのポイントなどを、自らの経験などもまじえて、小中学生の聴講者にも理解できるよう分かりやすく話して下さいました。

恥ずかしながら、「不東」という言葉について知ったのはこの時が初めてでした。

「不東」とは、インドへ達せずば東へ戻らず、という玄奘三蔵の気概を示した言葉で、一度立てた志を決して曲げることなく最後まで貫くことを意味しています。

国禁を犯して出国し一人砂漠の中を進む玄奘三蔵が、水の入った皮袋を落として水を失い一次引き返しかけた際、「自分は先に願をたててインドに至らなければ一歩も東に帰るまいとした。それなのに今なぜ引き返しているのか。むしろ西に向かって死ぬべきだ」と思い直して再び西に向かって歩を進めた、というエピソードとともにこの言葉を知りました。

薬師寺玄奘三蔵院の玄奘塔には、高田好胤薬師寺管主の筆による「不東」という二字の額が掲げられています。

薬師寺玄奘三蔵院の御朱印も、墨書で「不東」の文字と、玄奘三蔵が唐に経典を持ち帰る姿の御朱印です。

薬師寺玄奘三蔵院御朱印)

不東

この展覧会には「迷い続けた人生の旅路」というサブタイトルがつけられており、「多くの偉業に彩られた超人的なイメージの背後に隠された、ひとりの人間としての「玄奘さん」を見つめる」という趣旨で展示が構成されていました。

玄奘さん」の持つ6つの顔として、①「西遊記」の三蔵法師のモデル ②旅する人 ③卓越した翻訳家 ④辣腕の政治家 ⑤法相宗の鼻祖 ⑥「大般若経」の守護者 と紹介されていました。

この中で、"辣腕の政治家"という顔の説明に興味をひかれました。

天竺への旅において高昌国、西突厥、インドなどの異国の王たちからの援助を引き出し、唐への帰国後は太宗・高宗皇帝の心を掴み訳経プロジェクトを国家事業に仕立て上げたのには、世界情勢や人脈を見通す洞察力や、必要な物資や権力を絶妙のタイミングで引き出す交渉力など、逞しい政治力をも備えていたという説明でした。

玄奘さんの足跡は以下の「現代版五天竺図」に示されています。

(「三蔵法師玄奘」展のリーフレットから)

玄奘三蔵 大東西域記

玄奘さんが長安を発って天竺へ向け旅立ったのは627年、26歳の時。

 伊吾国までの孤独な砂漠行での苦難を乗り越え、高昌国で王の支援を得て旅を進める。

 天山南路・天山北路を辿って中央アジアの旅を続け、ヒンドゥークシュ山脈を越えてインドに至る。

 ナーランダ大学では戒賢に師事して唯識を学び、また各地の仏跡を巡拝しながら学問を修める。

 出国後19年を経て645年、44歳の時に祖国に帰国。同年長安の弘福寺で「大菩薩蔵経」の漢訳を開始。

 663年、62歳の時に「大般若経」600巻を訳了。

 翌664年正月、二十年に亘り執り続けた訳経の筆を置き、2月5日、弟子たちに見送られて63年の生涯を閉じる。

玄奘三蔵の遺骨は、唐の高宗皇帝の命によって長安の南郊外の興教寺に塔が建立され安置されましたが、唐末期の農民蜂起で興教寺塔は破壊され遺骨は行方知れずに。

時代が下り北宋時代に陜西の紫閣寺で玄奘三蔵の頭蓋骨が見つかり、内乱を避けて金陵(南京)に移されましたが、19世紀の太平天国の乱で塔が壊され再び所在がわからなくなります。

この玄奘三蔵の遺骨を発見したのは日中戦争さなかの日本軍。

1942年暮れ、南京郊外の小高い丘に稲荷神社を建てるために整地作業をしていた際に見つけた石棺の中から玄奘三蔵の頂骨を発見。

中国・南京政府との話し合いの結果、分骨して供養することとなり、一部が日本に持ち込まれました。

戦時中でもあり、頂骨は埼玉県岩槻市慈恩寺疎開し奉安され(1944年)、その後境内に建立された十三重の石塔に納められました(1950年)。

その後、台湾からの返還要請を受け分骨(1955年)。

そして、玄奘三蔵と深い縁のある奈良薬師寺への分骨の話も起きました。

1980年、慈恩寺の石塔を解体し遺骨が取り出され、翌1981年4月、薬師寺西塔落慶法要の結願の日に分骨・奉納されました。

玄奘三蔵院伽藍が出来上がるまでの間は宝蔵殿に仮安置されました。

現在は、玄奘三蔵院伽藍中央の玄奘塔に真身舎利として奉安されています。