la-musicaの美の採掘坑

自然、美術、音楽、訪れた場所などについて、「スゴイ!」「きれいだな...」「いいね」と感じたものごとを書き留めています。皆さんの心に留まる記事がひとつでもあればうれしいです。

大唐西域壁画 (絵の採掘坑 30)

京都・龍谷ミュージアムの「三蔵法師玄奘」展を訪ねた翌日、朝一番で奈良・西ノ京にある薬師寺を訪れました。

夏休み期間中、玄奘三蔵院伽藍は8月13日~15日の三日間のみ公開とのことで、どの程度の人出になるのか想像がつかなかったので、開門の8時半に間に合うように出かけました。

近鉄西ノ京駅に8時過ぎに到着。薬師寺に向かい白鳳伽藍の北入山口で開門を待ちます。 我々が最初の拝観者。

拝観受付をして、まだ誰も人のいない静かな道を、地蔵院・本坊寺務所の前を通って玄奘三蔵院伽藍に向かいます。

玄奘三蔵院の礼門。

玄奘三蔵院

礼門に向かって左側の方に拝観受付があり、入口から伽藍内に入ると敷地の中央にある玄奘塔が目に入ってきます。

玄奘塔には玄奘三蔵の頂骨が真身舎利として奉安されています。

須弥壇には大川逞一仏師の手による玄奘三蔵像が祀られていました。右手には筆、左手にはお経を手にしている姿です。

玄奘塔をお参りして奥に進むと、平山郁夫画伯の壁画が祀られている大唐西域壁画殿です。

日中戦争中に日本軍が発見した玄奘三蔵の頂骨が日中で分骨され一部が日本に持ち込まれ、埼玉県岩槻市慈恩寺疎開し奉安されたことは前回書きましたが、その頂骨を薬師寺に迎えて祀るという話が金堂の起工式のあった1971年に起きていました。

一方、平山画伯は、金堂の復興工事で天井・支輪・天蓋の文様制作の監修にあたるなどして薬師寺との縁を結んでいました。

1974年、金堂完成の一年前の年、平山画伯は当時の薬師寺管主であった高田高胤より玄奘三蔵の遺徳を顕彰する壁画制作の依頼を受け快諾します。

平山画伯にとって玄奘三蔵は特別な思い入れのある人物です。

彼は出世作となった1959年の「仏教伝来」で玄奘三蔵の天竺への求法の旅を描きました。

その時以来、玄奘三蔵の苦難の旅を追体験して描くためにシルクロードへ取材旅行に出かけていました。

岩槻の慈恩寺から分骨される玄奘三蔵の頂骨は当初西塔に祀られる予定でしたが、本来仏塔は釈迦の舎利を祀る場所であるということから、西塔とは別に玄奘三蔵院伽藍を建立することとなり、平山画伯の壁画は同院のために制作されることとなりました。

平山画伯はその後、自ら入手した仏舎利を薬師寺に寄進。その仏舎利は1978年5月の満月の夜、西塔の心礎に納められました。

平山郁夫シルクロード取材旅行は中近東・中央アジア・インド・中国など150回を超え、その行程は40万キロに及び、その間に描かれたスケッチブックは200冊近く、スケッチ点数は4,000点を超えたとのことです。

当初の構想から二十年以上の歳月を経て完成した『大唐西域壁画』は2000年12月31日大晦日の夜、二十世紀から二十一世紀に移り変わるその時、画伯による入魂開眼の儀が行われ奉納されました。

『大唐西域壁画』は、7場面13壁面から成り、高さ2.2メートル、幅49メートルに及びます。

7場面は、①「明けゆく長安大雁塔・中国」 ②「嘉峪関をいく・中国」 ③「高昌故城・中国」 ④「西方浄土 須弥山」 ⑤「バーミアン石窟・アフガニスタン」 ⑥「デカン高原の夕べ・インド」 ⑦「ナーランダの月・インド」。

北面中央に掲げられた ④「西方浄土須弥山」が本尊、 その左右にある⑤「バーミアン石窟」と③「高昌故城」が両脇侍という形です。

玄奘三蔵が唐の長安を出発しインドのナーランダに到着するまでの旅の流れと、朝から夜までの一日の時間の流れが重ねて描かれています。

壁画の配置は下記のようになっています。

((「仏教伝来の道:平山郁夫文化財保護」展カタログから)

大唐西域壁画配置図

第一場面は「明けゆく長安大雁塔・中国」。 旅立ちの場面にふさわしく朝陽が輝く景色です。

(「仏教伝来の道:平山郁夫文化財保護」展チラシ)

平山郁夫と文化財保護展

第二場面の「嘉峪関をいく・中国」に描かれた嘉峪関は万里の長城の西端を守る城塞として明代に造られたもので、平山画伯は唐からの出国を象徴する場所として描きました。

第三場面は「高昌故城・中国」。 高昌はシルクロード要衝の地で、玄奘三蔵はこの高昌国王の援助を得て旅を進めていきます。

大唐西域壁画

この絵の前に立つと、左側の壁面に右手前下から左斜め上方向にのびる道が描かれていて、手前にいる自分の方から奥に道がのびて見えます。

しかしながら、壁画殿の廊下を先に進み、第五場面のある左手の方から振り返って見ると、同じ道が画面右手奥から自分のいる左手前方向に、自分に向かって道がのびているように見えるのです。

そういう効果を出すよう意識的に描かれたそうです。 このことは壁画殿におられる薬師寺の方に教えて頂きました。

第四場面の「西方浄土 須弥山」で平山画伯はヒマラヤ山脈をモティーフにしました。 壁画殿の本尊となる場面です。

須弥山は仏教で世界の中心に聳えると考えられている山です。

その荘厳な姿を描くべく、1981年に画伯は高山病に苛まれながら標高4000メートルのエベレスト・ビューへの登山を敢行しています。

大唐西域壁画2

第五場面は「バーミアン石窟・アフガニスタン」です。

平山画伯は法隆寺金堂壁画の再現事業に携わったのをきっかけに、その源流とされるバーミヤンの壁画を確かめるべく、1968年に同地を訪ねています。

バーミヤンの大仏がタリバン政権による爆破されたのは大唐西域壁画が完成して間もない2001年3月のことでした。

大唐西域壁画5

第六場面「デカン高原の夕べ・インド」 は、南インド・デカン高原の荒涼とした大地をアウランガーバードの石窟から眺めたもの。

そして、第一場面と同様に一つの壁面に描かれた第七場面「ナーランダの月・インド」は、月光を浴びるナーランダの遺跡が描かれています。

画面右下方に大塔に向かい合掌する人物のシルエットが描かれています。

苦難の末にナーランダに辿り着いた玄奘三蔵に、薬師寺再興に生涯を捧げながら玄奘三蔵院の完成を見ることなく1998年に世を去った高田高胤薬師寺管主が重ね合わせられているのです。

大唐西域壁画4

壁画殿の天井には、タクラマカン砂漠に広がる夜空が描かれています。

ラピスラズリの群青の夜空に金砂子の星、東に金で太陽、西に銀で月が配されています。

壁画殿の床は、砂漠の雰囲気を出したいという平山画伯の希望で画伯がタクラマカン砂漠から持ち帰られた砂の色に合わせたタイルが敷かれ、中央の一角にはオアシスを表現するため砂漠に生える駱駝草を描かれています。

『大唐西域壁画』とは2011年に東京国立博物館で開催された「仏教伝来の道:平山郁夫文化財保護」展で対面していましたが、今回は展覧会の絵としてではなく、薬師寺玄奘三蔵院の絵身舎利という、本来ある場所での姿で改めて対面し拝むことができ、感慨深いものがありました。

『大唐西域壁画』は、薬師寺の白鳳伽藍の復興を一般大衆を相手に百万巻の写経勧進を募ることで成し遂げようと献身した高田高胤師の情熱と、経を求めてインドへの旅に出た玄奘三蔵の目に映ったものを平和への祈りを込めた絵にしようと旅し続けた平山画伯の志とが同期し結実したものです。