東西ベルリン 1985年夏 (永遠の場所 1)
学生の頃、そして社会人になってからも、色々な場所を旅してきました。
一度しか訪れていない場所。たびたび訪れた場所。その中に強く印象に残っている特別な場所があります。
僕にとっては永遠の、それらの場所のことを書いておきたいと思います。
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最初の場所はベルリン。
僕が初めてベルリンを訪れたのは、まだドイツ並びにベルリンが東西に分割されていた1985年の夏。
この年の3月にミハイル・ゴルバチョフがソビエト連邦共産党書記長に就任していましたが、この夏の時点では冷戦が終結してベルリンの壁が崩れるなどとは全く想像できず、東西ドイツ関係に興味があった自分は、ただ東西冷戦の最前線を見て感じたいとの思いでベルリンを訪れました。
ベルリンへは西ドイツのミュンヘンからの夜行列車を使って入りました。
人は少なく乗車早々一つのコンパートメントを占有。共産圏である東ドイツ領内を一人旅で通過する不安はありましたが、いつの間にか寝入ってしまいました。
国境の検札で起こされ、西ドイツの検札に続いて東ドイツのパスポートコントロールを受け、東ドイツ領内通過のためのトランジットビザを取得。Probstzellaという国境管理の駅でした。
同駅出発後また眠ったものの、緊張しているので熟睡できず暗い中目を覚ましました。
何か違和感を感じます。”列車の進む方向が出発した時と反対になっている…” 急に寒気がしてきました。
ジョン・ル・カレの「寒い国から帰ってきたスパイ」など東西冷戦を舞台としたスパイ小説を多く読んでいたので、一部の車両が切り離されてどこかへ連れて行かれるのではないかとの不安・妄想が急にもたげてきました。
けれども、確認するすべもなく、悩み続けても仕方がないことに気づき、「どこかのターミナル駅で向きを変えたのに違いない」と割り切って眠ることにしました。
朝、西ベルリンに到着。早速、東ベルリンへ入るべくチェックポイント・チャーリーへ。
「チェックポイント・チャーリー」はベルリンの東西境界線上に置かれていた国境検問所です。
名称は西側連合国による呼称で、NATOフォネティックコードの「C」に当てる "Charlie"から取ったもの。
一方ソ連側では、単に「フリードリヒ通り検問所」と呼んでいたとのことです。
東ベルリンへの入国ビザ代5マルクと強制両替25マルクをソ連側検問所で支払ったはずなのですが覚えていません。
でも緊張していたと思います。
検問所を抜けたら、まずはブランデンブルグ門を臨むべく通りを北上。やがてウンター・デン・リンデン大通りに
ぶつかります。
森鴎外がそこに立って感じた喜びを、”忽ちこの歐羅巴の新大都の中央に立てり。何等の光彩ぞ、我目を射むとするは。”と「舞姫」の中で書いた、輝かしく華やかな菩提樹の並木通りはなく、グレーのモノトーンの幅広い道があるだけでした。
ブランデンブルグ門はウンター・デン・リンデン大通りの西の端にあります。
門のかなり手前に柵が設置されているので、観光客含め一般の人達は門に近づくことはできません。
柵のところには"Grenzgebiet(国境地帯)"と書かれた看板も立っています。
(昔撮った写真の一枚に、国境地帯の中にバスがいて、バスから降りて歩いている一団が写っていました。どういう団体だったのでしょう。)
通ることができず門としての役割をなさない門。東西分断を象徴するモニュメントにふさわしいと感じました。
1791年竣工のブランデンブルグ門の上には四頭立ての馬車(クアドリカ)にのった勝利の女神ヴィクトリアの像があります。
1806年ナポレオンのベルリン占領により戦利品としてフランスに持ち去られ、その後1814年プロイセン軍がナポレオンを破ってパリを占領するとベルリンに持ち帰られ門の上に戻されました。
東独時代に東向きに変えられ、それ以来東を向いているとの事。
ウンター・デン・リンデンを東へ歩くとノイエ・ヴァッヘ(新衛兵所)があり、ちょうど衛兵が交替するところでした。
ここは19世紀初めにシンケルによって衛兵所として設計されましたが、ドイツ共和国成立後の1930年代に第一次大戦の戦没者の慰霊の場に改造され、更に第二次大戦後の1960年、ドイツ民主共和国によって、「ファシズムと軍国主義の犠牲者のための追悼所」として再開されました。
東ドイツ内で写真を写すのがどの程度許されるのかわかっていませんでしたが、他にもカメラを向けている人がいたのでシャッターを切りました。
ウンター・デン・リンデン沿いにある書店でベルリンの地図を購入。
東ベルリンで購入した地図では西ベルリンは無視されていて空白でした。
一方、西ベルリンで購入したベルリンの地図上は東ベルリンも西ベルリンと同じように記載されていました。
ただ、国境線/壁の部分が太い赤の点線で示されています。
東ベルリンの博物館/美術館ではペルガモン博物館だけは是非行きたいと思っていたので訪問。
ペルガモンの「ゼウスの大祭壇」やバビロニアの「イシュタール門」などの巨大な展示品には圧倒されました。
帰り道に道沿いにあるビア・レストランのテラス席で生ビールを注文、ぬるく気の抜けたビールでがっかりさせられたことを思い出します。
その日、西ベルリンに戻った後は、落書きで塗られた西側の壁の景色を求めて歩き回りました。
そして、どうしてもブランデンブルグ門を反対の正面からも見たかったので、かなり遠回りをさせられましたが、
バリケードで仕切られた反対側正面にたどり着きました。東ベルリンで見るよりも離れた距離から観させられる
ことになりました。
(その時近くにいた人に撮ってもらった写真の左端には戦車が写っていますが、記憶には残っていません。)
その日の宿は西ベルリンの繁華街のクーダムの近辺でとったと思うのですがよく覚えていません。
ただ、東ドイツ領内にある陸の孤島であるがために西ベルリン全体が閉塞感に包まれていると感じて重苦しい気分であったのを記憶しています。