la-musicaの美の採掘坑

自然、美術、音楽、訪れた場所などについて、「スゴイ!」「きれいだな...」「いいね」と感じたものごとを書き留めています。皆さんの心に留まる記事がひとつでもあればうれしいです。

プラハ - 百塔の街とアペリティフ (永遠の場所 6)

チェコの首都プラハには80年代後半から90年代前半にかけて度々出張し長期に滞在しました。

僕にとってはとても思い出深い特別な街です。

その後2000年に旅行で訪れましたが、それ以来訪問する機会が持てていません。

大好きなプラハついての下記の雑文は今から十年以上前に書いたものです。

今もその時の気持ちのままなので、そのまま掲載したいと思います。

≪百塔の街とアペリティフ

プラハ1

プラハの知人にもらった写真集から)

僕はまだ、チェコの首都プラハほど古い町並みが今に息づいている街を訪れたことがない。

かつてモーツァルトが住み、オペラ「ドン・ジョバンニ」が初演された街。

映画「アマデウス」もプラハでロケがなされ、旧市街の町並みがモーツァルトの時代そのままにうまく使われていた。

ここでは、ヴェネツィアで路地裏を歩いている時に感じるのと同じ、時間を超越した空気が漂っている。

地図を見ずぶらぶら歩き、なにげなく入った路地でその空気に突然襲われ、眩暈とともに自分の置かれた環境や時間に対する感覚を失ってしまう。

そして、いつの間にか過去に遡った幻想に陥っている。

冬の夜、街燈の仄かな明かりの下で旧市街の細い路地を歩いていると、雪を被った石畳の道を向こうから、酔っ払ったモーツァルトがよろめきながら歩いてくるのではないか、という錯覚に捕らわれたりするのだ。

その一方で、ヴァツラフ広場に立っていると、六八年「プラハの春」を力で沈黙させたソ連軍の戦車と軍事介入に混乱する人々の姿が、かつて見た白黒フィルムの通りに浮かんでくる。

ある時は、暗い道を歩いていて後ろに響くコツコツという靴音から、誰かに尾行されているのではないかと、冷戦時代のスパイの世界に入り込んだ感覚に背筋が寒くなったりする。

この街では、ロマネスク様式からゴシック、ルネッサンスバロック、そしてアール・ヌーボー調に至るまであらゆる時代とスタイルの建物が並存調和しており、それらがこの「百塔の街」を形作っている。

プラハの旧市街には幾つもの広場があるが、一五世紀フスの宗教改革の火蓋が切られた場所があれば、一九六八年にソ連の戦車が「プラハの春」の改革の動きを踏みにじり、更にはその二十年後学生デモを契機に発展した自由化への波が共産党独裁を無血革命で倒すに至る舞台となった広場もある。

塔の形も、ゴシック様式のティーン教会の二連の尖塔から、火薬塔や旧市庁舎塔、そしてカレル橋の塔の様に、重量感のある長方体の上に、端に小さな尖塔を備えた三角塔がのったもの、更には聖ニコラス教会の様に円形のドームを備えたバロック様式など様々である。

この「百塔の街」のパノラマこそ、僕がプラハを訪ねる際に最も楽しみにしていたものなのである。

空港からプラハ市内へはタクシーで半時間程度。市内に近づくと閑静な住宅地がひらけ、車はその住宅地を抜けて高台へと坂を登っていく。

やがて丘を登り切り、先が左にカーブしている石畳の坂道を降り始める。

そして、カーブにさしかかろうとする直前、我々は視界いっぱいに広がる百塔の街とヴルタヴァ川の眺望を目の当たりにすることになる。

僕はこの一瞬を待ち、タクシーが住宅地を貫く直線の坂道を登り始めると、シートにもたれかかっていた身体を起こし、乗り出した体勢で備えるのだ。

時刻としてはやはり夕暮れ時が最高だ。茜色の空を背景に数々の塔の異なるシルエットが浮かび上がる景色は、一瞬にして見る人々をこの古都の虜にしてしまうだろう。

もちろん他にもこの古都を望むのに良い場所を幾つか挙げることができる。

例えば、旧市街からカレル橋を渡りプラハ城へ向けて石畳の坂道を登っていく途上にあるフラッチャニ広場。ここから一望するプラハ市街の景色も素晴らしい。

逆に旧市街側から見上げるプラハ城とヴルタヴァ川という定番の景色もある。こちらは夜景が良い。

トム・クルーズ製作・主演の映画「ミッション・インポッシブル」の前半部分では、サスペンスフルな諜報の世界の雰囲気を作り出すのにプラハが舞台として効果的に使われていたのは記憶に新しい。

カレル橋から旧市街の細い路地、国立博物館の階段、そして旧市街から望むプラハ城の景色まで、この街のパノラマの数々が散りばめられていた。

♪♪

僕が初めてプラハを訪れたのは学生時代の一九八五年のこと。

ドイツ滞在中に語学学校の旅行に参加し、ミュンヘンからバスでチェコ入りした時だ。初めての「鉄のカーテン」の向こう側への訪問でもあり、その時の気分は、好奇心と期待、そして緊張が入り交じっていた。

当たり前のことながら、国境での入国審査は時間がかかった。

バスの運転手がチェコの国境係官にビール一ダースを差し入れていたのが強く記憶に残っている。

ただ、この時のプラハ滞在は短期間だったので、お決まりの観光コースを急ぎ足で回るにとどまり、短い自由時間は当時興味を持っていたミュシャの作品やアール・ヌーボー様式の建物を見て歩くにことに費やした。

昼間のうちから闇両替に何度も声をかけられ、うんざりさせられた。

二度目に訪れたのはそれから三年後、社会人になって仕事で東欧市場を担当するようになってからのことだ。初出張でプラハへ旅立つ僕に対し、部長の注意第一声は「女性には気をつけるように!」。

当時、西側の人間が泊まるホテルのロビーには必ずと言って良いほど数人の夜の女性がいて、時には部屋のドアまでノックして売り込みに来た。

今でさえビジネス・センターを備えた旧西側資本のホテルが数多く建っているプラハだが、その頃はめぼしいホテルといえばインターコンチネンタルしかなく、そこにもビジネス・センターと呼べる立派なものはなかったように思う。

当然僕はインターコンチネンタルではなく、ローカル・ホテルに滞在した。

電話事情はとても悪く、国際電話は交換手に頼んで相当の時間を待たないとつながらない状態だった。加えて盗聴の恐れもあった。

仕事上の通信手段はもっぱらテレックスであったが、重要な内容は盗聴に備えて暗号表を使って交信していた。

この当時、出張の度に滞在したのは、ヴァツラフ広場近くにあるJaltaやAlcronというホテルであった。

室内はとても暗く、先に述べた通りの通信事情と設備状況である。

しかしながら、そうした中でレストランだけは、対応といい雰囲気といい十分な格式を保っており、とても感じが良かった。

結局のところ、今当時を振り返って懐かしく思い出すのは、このレストランでの優雅ともいえる食事の時間である。

♪♪♪                        

席につくとまずウェイターが食前酒の瓶が詰まったカートを押してきて、「食前酒は何になさいますか?」と尋ねてくる。

初めての時答えあぐねていると、ウェイターが次々と食前酒の名前を挙げていく。カンパリ、チンザノ等々。

途中で耳慣れない名前にぶつかったので問い返してみると「ベヘロフカ」と答えが返ってきた。

チェコ名産の薬草酒だと言うので、早速試してみることにする。

緑の瓶から注がれたのは、少し黄みがかった透明の酒で、味は薬草による苦みはあるものの全体的に甘目のリキュールであった。

この時以来、プラハにおける僕の食前酒はベヘロフカになってしまった。

別に最初からビールでも全く構わなかったのだけれど。

食前酒が注がれると、今度は様々なオードブルが載る大皿が持ってこられ、目の前で「どれになさいますか?」と尋ねられる。

一種か二種を選んで、アペリティフで口を潤しながらさらりと食べ終わると、ここでメニューが運ばれてきて恭しく手渡される。

料理を注文する際に、併せてビールもしくはワインを頼むことになる。

スープは初めから器に入れて持ってこられることはなく、たとえ一人分であってもウェイターが大きなポットを持ってきてそこからスープ皿に注ぐ。

サラダも、色々な種類の野菜が載ったカートが引いてこられ、自分の好きなものをよそってもらう。

さてメイン・ディッシュであるが、これもカートに載せられ、ホット・プレートとともに登場する。

あらかじめテーブルにセットされていた受け皿の上に暖められた皿が重ねて置かれ、その皿に取り敢えず食べるだけの分量がよそわれ、残りはホット・プレートの上に置いておかれる。

皿がきれいになりかけると、ウェイターがすかさず現れ、残りの分を改めてよそってくれるのである。

デザートをどうしようと迷う人には「パラチンキ」がお勧めである。

いわゆるクレープで、大体において生クリームとアイス・クリームが添えられるのだが、それだけではない。

メイン・ディッシュと同じようにカートに載せられ引かれて出てくるのであるが、ここで必ずパーフォーマンスがあるのだ。

ウェイターは、客の目の前でクレープにブランデーをふりかけこれに火を点けて暫し暖めた上で盛り付けるのである。

クリームの仄かな甘味と染み込んだブランデーの香りが効いて上品な味である。

そして、更に楽しみたければコニャック、アルマニャック等食後酒を頼み(これもカートで運ばれてくる)、最後に濃く煎ったコーヒーをデミタスでゆっくり飲んだところで、心地好い満腹感と寛ぎのうちに食事を終えることとなる。

♪♪♪♪                       

この優雅な食事の雰囲気へいざなう導き手として、「ベヘロフカ」は僕にとって不可欠のアペリティフとなった。

この薬草酒は、チェコで最も有名な温泉街であるカルロヴィ・ヴァリでつくられている。

その効用から一二の温泉があるカルロヴィ・ヴァリの一三番目の温泉と呼ばれ、多くの人々に飲まれている。

アルコール度三八%で、ウィスキーより若干低い程度の強い酒だが、お隣りハンガリーの有名な薬草酒ユニキュムとは違って口当たりが良い。

「BECHER」と記された緑の瓶はチェコ国内のどこででも見つけることができるものだ。

最初はベヘロフカというお酒が「一三番目の温泉」と呼ばれる意味がピンとこなかったが、カルロヴィ・ヴァリの街を訪れてみて、コップを手にした人々が時々立ち止まっては湧き出る温泉をすくって飲んでいるのを見てようやく納得がいった。

カルロヴィ・ヴァリでは、温泉は浴用のみならず飲用にも供されているのである。

一般的な常識からすれば、チェコのお酒といえば第一にビールをあげなければならないだろう。

チェコ・ビールの銘柄、「ピルスナーウルクエル」「ブドワーザー」のこってりとした旨みは一度味わうと病み付きになってしまう。

ドイツにおいてもピルスとして多くのブルワリーで製造され広く飲まれているが、ドイツのピルスの方が、チェコピルスナーよりも口当たりが軽く、その一方で苦みが強いと感じる。

どちらのビールも気に入っているが、今は強いてどちらかかと問われれば、ピルスナーの「こってり味」を選ぶだろう。

プラハ滞在中は毎日、というよりあらゆる機会にピルスナーを楽しんでいたものだ。

しかしながら、レストランで食事をする際のアペリティフは必ずベヘロフカと決めていた。

♪♪♪♪♪

ビロード革命から数年後、西側資本のホテルも増え、僕はその一つに滞在しながらも、かつてのあの優雅な食事がどうしても忘れられなくて、期待と不安を胸にかつて滞在したホテルの懐かしいレストランに足を運んでみた。

内装が少し色褪せた感じなのは時の流れで致し方ないのかもしれない。

華やかさが薄らいだのは、客層が変わり、かつての上客をビジネスマン御用達の新しい便利なホテルとそのレストランに奪われているからなのだろうか。

何はともあれ、まずはベヘロフカを注文する。食前酒とオードブルはかつての様にサーブされてきた。

かすかな期待を胸にその先のサービスを待つ。

しかしながら、その先のスープやメイン、デザートはかつてのような悠長な対応はなくなり、新しいホテルのレストラン同様、既に調理場で盛り付けられたものが運ばれてくるというものに変わっていた。

来る道、欧米・西側化されつつある街を歩きながら予想していたことではあったが、やはり裏切られてみると寂しい。

街は欧米の文物で溢れかえっていて、ファーストフードからパンクまで、あっという間に流入した様子。

結局、西側文化の流入と同時に競争原理が導入され、コストや効率を無視してはやっていけなくなったということなのだろう。

ビロード革命による自由化・開放化の影響の一例としてプラハに住む知人から教えてもらったことがあった。

なぜ多くのボヘミアングラスの店が閉まっているのか。なぜなら、店を開いたとたんにドイツ人を始めとする旧西側からのバイヤーや旅行者が買い占めてしまうために新たな物の入庫までまた店を閉じざるを得ないから。

こうした開放化の過程のなかで、プラハでの優雅な食事は、ベヘロフカというアペリティフに結びついて、僕のノスタルジーの対象となっていった。

♪♪♪♪♪♪

それからプラハを訪れる機会がないまま更に数年が経過してしまった。

初めての訪問から十年以上が過ぎたことになる。この十年間の間にプラハを取り巻く社会は大きく変わった。

が、数百年の歴史を持つプラハは、この間の変化を吸収しながらも、古い町並みを相変わらず息づかせて、素晴らしい「百塔の街」のパノラマで訪れる旅人達を迎え入れていることだろう。

いずれ再び訪れる僕も、その姿にノスタルジーを刺激されて、どこかのレストランでアペリティフを啜りながらゆったりと思い出に耽るに違いない。

それまでは取り敢えず、冷蔵庫の中のラベルの剥げかかった緑の瓶と、チェコの知人からもらったプラハの写真集とで、思い出を慰めることとしよう。

プラハ2

プラハの知人にもらった写真集から)