la-musicaの美の採掘坑

自然、美術、音楽、訪れた場所などについて、「スゴイ!」「きれいだな...」「いいね」と感じたものごとを書き留めています。皆さんの心に留まる記事がひとつでもあればうれしいです。

星を見る夕べ、再び (センス・オブ・ワンダー 35)

先週、9月の第二土曜日、かわさき宙と緑の科学館の「星を見る夕べ」に行ってきました。

 

かわさき宙と緑の科学館の星空観察会に初めて行ったのは今年の3月28日。

その後も機会をうかがっていたのですが、月二回の開催日が雨や曇りで中止となることが多く、暫く行っていませんでした。

 

2回目の訪問が8月22日。続けて今回9月12日の観察会にも参加できました。

 

観察会は、まずプラネタリウムでその日観察する星空についての説明を聞きます。

その後10人単位で順次屋上の天体観測スペース「アストロテラス」に上がり、大型望遠鏡で星空を観察するというステップとなります。

8月22日の観察会は200名近い参加者がいて、我々は到着が遅かったため屋上に上がるのも最後の方で夜8時半頃でした。

9月12日の観察会は参加者が200名を超えていて、この時も到着が遅かったので大型望遠鏡で観察できたのは夜9時過ぎ。

ただ、プラネタリウムで待機している間も、子供達が退屈しないように解説者の方が子供向けに色々なお話や説明をしてくれました。

早くに屋上に上がるよりもプラネタリウムでじっくり話が聞けて楽しいのですが、さすがに夜9時からの屋上観察では子供達も疲れてしまいました。

 

9月12日に大型望遠鏡で観察したのは、はくちょう座二重星アルビレオ、並びにこと座の環状星雲M57でした。

 

この日は、夏の大三角の三つの星(こと座ベガ、わし座アルタイル、はくちょう座デネブ)が天頂近くに肉眼でくっきりと見えました。三つの星のうち、ベガとアルタイルは、七夕の伝説における「おりひめ(織姫)」と「ひこぼし(彦星)」です。

星を見る夕べ 20150912

 

はくちょう座の星は、尾の部分にある最も明るい1等星のデネブ以外にも、胸の部分にあるサドル、両側の翼部分のギェナーとδ星の三つの星も肉眼ではっきり見えました。

白鳥座

 

今回大型望遠鏡で観察したアルビレオは白鳥のくちばしの部分に当たる星で、肉眼で見ると単一の星としてしか見えませんが、望遠鏡で見ると二重星であることがはっきりとわかります。

くちばしの内側の方にある大きく明るく見える星は橙色に輝き、外側の小さく見える星は青白く輝いていました。

宮沢賢治は「銀河鉄道の夜」で、この二つの星を、輪になって回るサファイアとトパーズになぞらえています。

アルビレオ

 

次に大型望遠鏡で観察したのはこと座にある惑星状星雲M57。

リング状に見えることで有名で、環状星雲、リング星雲、ドーナツ星雲などと呼ばれているそうです。

こちらの方は大型望遠鏡でもぼんやりとした円にしか見えず、残念ながらドーナツ型には見えませんでした。

まばたきをすると目が動いて焦点を当て直すので、それで何とかとらえることができました。

地球からの距離は、アルビレオが434光年であるのに対してM57は約2600光年。 全然遠いですね。

 

その日の主たる観察対象のアルビレオとM57を見た後は、小型の望遠鏡で北極星を観察しました。

肉眼でも見えましたが望遠鏡でくっきり見えました。

北極星こぐま座のしっぽの先端にあるポラリスです。 といってもこの星が未来永劫北極星というわけではありません。

北極星とは天球の北極にもっとも近い恒星を意味していますが、地球の"歳差運動"(コマの首ふり運動のようなもの)により自転軸の傾きが少しずつ変わるため、何千年かごとに北極星は別の星に移り変わります。

紀元前1100年頃には同じこぐま座のβ星が北極星でした。

将来は紀元4100年ころにケフェウス座のγ星が北極星になるそうです。

 

北極星を見た頃には9時半を過ぎていたので切り上げて帰途につきました。

 

その前の回の8月22日は、土星が月の近くでくっきりと見え、大型望遠鏡で月と土星を観察しました。

星を見る夕べ 20150822

 

大型望遠鏡で見た土星はまわりの輪がくっきりと見えました。

又、あくまで光の点としてですが、土星の衛星タイタンが認められました。

土星

 

この日の夜空は、月、土星、さそり座のアンタレスが横一列に並んで鮮やかに美しく輝いていました。

ノマキューブ~どんぐりころころ (手づくりバンザイ 12)

妻と子供たちに、劇作家/パフォーミング・アーティスト「小林賢太郎」がブームです。

暫く前にNHKで『小林賢太郎テレビ』を観て以来のブームですが、最近NHKオンデマンドで、昔の「小林賢太郎テレビ1 〜ポツネン氏の不思議な1日〜」「小林賢太郎テレビ2 〜ポツネン旅に出る〜」を観てまた火がつきました。

ここのところYouTubeで彼のコント/パフォーマンスを観ているようです。

その小林賢太郎さんの「ノマキューブ」というパフォーマンスがあります。

"ノマキューブ"というのは、六面立方体8個を組み合わせ、つなぐ場所と向きを工夫し色々な方向へ折り畳めるようにして、パタパタ動かして紙芝居のように複数の画面を見せる、立方体のしかけ絵本です。

小林賢太郎さんの「ノマキューブ」のパフォーマンスは”カッコウ”でした。

これを観てはまった妻と子供たち。 自分たちでも作ろうとネットで調べて作業し始めました。

息子は息子は立方体の積木を8個テープでとめてノマキューブを作り、”カッコウ”の鼻歌に合わせてパフォーマンスが出来るよう、練習を始めました。

一方、娘は色画用紙で立方体を作るところから始め、”どんぐりころころ”バージョンのノマキューブを作りました。

自分は、夕食時に近くなったので、チーズをつまみに白ワインを飲み始めたのですが、つまみの”ベルキューブ(Belcube)チーズ”を息子が見て、「これでノマキューブをつくる!」と8個持っていってしまいました。

出来上がった”どんぐりころころ”のノマキューブと、”ベルキューブ(Belcube)チーズ”のノマキューブが以下の通りです。

スタート(&最終)画面。

どんぐりころころ1

どんぐりころころどんぶりこ。

どんぐりころころ2

おいけにはまってさあたいへん。

どんぐりころころ3

どじょうがでてきて

どんぐりころころ4

こんにちは。

どんぐりころころ5

ぼっちゃんいっしょにあそびましょ。

どんぐりころころ6

終わり。

どんぐりころころ7

なかなか楽しかったです。

大唐西域壁画 (絵の採掘坑 30)

京都・龍谷ミュージアムの「三蔵法師玄奘」展を訪ねた翌日、朝一番で奈良・西ノ京にある薬師寺を訪れました。

夏休み期間中、玄奘三蔵院伽藍は8月13日~15日の三日間のみ公開とのことで、どの程度の人出になるのか想像がつかなかったので、開門の8時半に間に合うように出かけました。

近鉄西ノ京駅に8時過ぎに到着。薬師寺に向かい白鳳伽藍の北入山口で開門を待ちます。 我々が最初の拝観者。

拝観受付をして、まだ誰も人のいない静かな道を、地蔵院・本坊寺務所の前を通って玄奘三蔵院伽藍に向かいます。

玄奘三蔵院の礼門。

玄奘三蔵院

礼門に向かって左側の方に拝観受付があり、入口から伽藍内に入ると敷地の中央にある玄奘塔が目に入ってきます。

玄奘塔には玄奘三蔵の頂骨が真身舎利として奉安されています。

須弥壇には大川逞一仏師の手による玄奘三蔵像が祀られていました。右手には筆、左手にはお経を手にしている姿です。

玄奘塔をお参りして奥に進むと、平山郁夫画伯の壁画が祀られている大唐西域壁画殿です。

日中戦争中に日本軍が発見した玄奘三蔵の頂骨が日中で分骨され一部が日本に持ち込まれ、埼玉県岩槻市慈恩寺疎開し奉安されたことは前回書きましたが、その頂骨を薬師寺に迎えて祀るという話が金堂の起工式のあった1971年に起きていました。

一方、平山画伯は、金堂の復興工事で天井・支輪・天蓋の文様制作の監修にあたるなどして薬師寺との縁を結んでいました。

1974年、金堂完成の一年前の年、平山画伯は当時の薬師寺管主であった高田高胤より玄奘三蔵の遺徳を顕彰する壁画制作の依頼を受け快諾します。

平山画伯にとって玄奘三蔵は特別な思い入れのある人物です。

彼は出世作となった1959年の「仏教伝来」で玄奘三蔵の天竺への求法の旅を描きました。

その時以来、玄奘三蔵の苦難の旅を追体験して描くためにシルクロードへ取材旅行に出かけていました。

岩槻の慈恩寺から分骨される玄奘三蔵の頂骨は当初西塔に祀られる予定でしたが、本来仏塔は釈迦の舎利を祀る場所であるということから、西塔とは別に玄奘三蔵院伽藍を建立することとなり、平山画伯の壁画は同院のために制作されることとなりました。

平山画伯はその後、自ら入手した仏舎利を薬師寺に寄進。その仏舎利は1978年5月の満月の夜、西塔の心礎に納められました。

平山郁夫シルクロード取材旅行は中近東・中央アジア・インド・中国など150回を超え、その行程は40万キロに及び、その間に描かれたスケッチブックは200冊近く、スケッチ点数は4,000点を超えたとのことです。

当初の構想から二十年以上の歳月を経て完成した『大唐西域壁画』は2000年12月31日大晦日の夜、二十世紀から二十一世紀に移り変わるその時、画伯による入魂開眼の儀が行われ奉納されました。

『大唐西域壁画』は、7場面13壁面から成り、高さ2.2メートル、幅49メートルに及びます。

7場面は、①「明けゆく長安大雁塔・中国」 ②「嘉峪関をいく・中国」 ③「高昌故城・中国」 ④「西方浄土 須弥山」 ⑤「バーミアン石窟・アフガニスタン」 ⑥「デカン高原の夕べ・インド」 ⑦「ナーランダの月・インド」。

北面中央に掲げられた ④「西方浄土須弥山」が本尊、 その左右にある⑤「バーミアン石窟」と③「高昌故城」が両脇侍という形です。

玄奘三蔵が唐の長安を出発しインドのナーランダに到着するまでの旅の流れと、朝から夜までの一日の時間の流れが重ねて描かれています。

壁画の配置は下記のようになっています。

((「仏教伝来の道:平山郁夫文化財保護」展カタログから)

大唐西域壁画配置図

第一場面は「明けゆく長安大雁塔・中国」。 旅立ちの場面にふさわしく朝陽が輝く景色です。

(「仏教伝来の道:平山郁夫文化財保護」展チラシ)

平山郁夫と文化財保護展

第二場面の「嘉峪関をいく・中国」に描かれた嘉峪関は万里の長城の西端を守る城塞として明代に造られたもので、平山画伯は唐からの出国を象徴する場所として描きました。

第三場面は「高昌故城・中国」。 高昌はシルクロード要衝の地で、玄奘三蔵はこの高昌国王の援助を得て旅を進めていきます。

大唐西域壁画

この絵の前に立つと、左側の壁面に右手前下から左斜め上方向にのびる道が描かれていて、手前にいる自分の方から奥に道がのびて見えます。

しかしながら、壁画殿の廊下を先に進み、第五場面のある左手の方から振り返って見ると、同じ道が画面右手奥から自分のいる左手前方向に、自分に向かって道がのびているように見えるのです。

そういう効果を出すよう意識的に描かれたそうです。 このことは壁画殿におられる薬師寺の方に教えて頂きました。

第四場面の「西方浄土 須弥山」で平山画伯はヒマラヤ山脈をモティーフにしました。 壁画殿の本尊となる場面です。

須弥山は仏教で世界の中心に聳えると考えられている山です。

その荘厳な姿を描くべく、1981年に画伯は高山病に苛まれながら標高4000メートルのエベレスト・ビューへの登山を敢行しています。

大唐西域壁画2

第五場面は「バーミアン石窟・アフガニスタン」です。

平山画伯は法隆寺金堂壁画の再現事業に携わったのをきっかけに、その源流とされるバーミヤンの壁画を確かめるべく、1968年に同地を訪ねています。

バーミヤンの大仏がタリバン政権による爆破されたのは大唐西域壁画が完成して間もない2001年3月のことでした。

大唐西域壁画5

第六場面「デカン高原の夕べ・インド」 は、南インド・デカン高原の荒涼とした大地をアウランガーバードの石窟から眺めたもの。

そして、第一場面と同様に一つの壁面に描かれた第七場面「ナーランダの月・インド」は、月光を浴びるナーランダの遺跡が描かれています。

画面右下方に大塔に向かい合掌する人物のシルエットが描かれています。

苦難の末にナーランダに辿り着いた玄奘三蔵に、薬師寺再興に生涯を捧げながら玄奘三蔵院の完成を見ることなく1998年に世を去った高田高胤薬師寺管主が重ね合わせられているのです。

大唐西域壁画4

壁画殿の天井には、タクラマカン砂漠に広がる夜空が描かれています。

ラピスラズリの群青の夜空に金砂子の星、東に金で太陽、西に銀で月が配されています。

壁画殿の床は、砂漠の雰囲気を出したいという平山画伯の希望で画伯がタクラマカン砂漠から持ち帰られた砂の色に合わせたタイルが敷かれ、中央の一角にはオアシスを表現するため砂漠に生える駱駝草を描かれています。

『大唐西域壁画』とは2011年に東京国立博物館で開催された「仏教伝来の道:平山郁夫文化財保護」展で対面していましたが、今回は展覧会の絵としてではなく、薬師寺玄奘三蔵院の絵身舎利という、本来ある場所での姿で改めて対面し拝むことができ、感慨深いものがありました。

『大唐西域壁画』は、薬師寺の白鳳伽藍の復興を一般大衆を相手に百万巻の写経勧進を募ることで成し遂げようと献身した高田高胤師の情熱と、経を求めてインドへの旅に出た玄奘三蔵の目に映ったものを平和への祈りを込めた絵にしようと旅し続けた平山画伯の志とが同期し結実したものです。

三蔵法師玄奘と薬師寺 (永遠の場所 30)

今回の京都・奈良旅行に際しては、息子が「西遊記」を読み始めていたことも一つのきっかけとなり、玄奘三蔵の遺骨が分骨され祀られている奈良・薬師寺を訪れたいと考えていました。

第一の目的は、日本画家・平山郁夫玄奘三蔵の苦難の記録である「大唐西域記」に画題を求めて描き上げ、薬師寺玄奘三蔵院に納められた『大唐西域壁画』を観ることです。

2011年1月から3月にかけて「仏教伝来の道:平山郁夫文化財保護」という特別展が東京国立博物館で開催され、平山郁夫画伯の『大唐西域壁画』が初めて寺外で展示されました。

その特別展で壁画を観てそのスケールに圧倒され、又、平山画伯と玄奘三蔵薬師寺との関係、壁画が完成し入魂開眼されるまでの長い道のりを知り、是非いつか薬師寺玄奘三蔵院伽藍で『大唐西域壁画』を観てみたいと思っていました。

偶然なことに、我々が訪れようとした時期に京都の龍谷ミュージアムで「三蔵法師玄奘」展が開催されていることを知り、奈良・薬師寺を訪問する前に観ておきたいと考え、龍谷ミュージアムの「三蔵法師玄奘」展を訪ねました。

(「三蔵法師玄奘」展チラシ)

玄奘展

玄奘三蔵は、『西遊記』に登場する「三蔵法師」のモデルとなった中国唐時代の僧侶です。

当時まだ中国には伝わっていなかった仏教の経典を求めて天竺(インド)に赴き、同地での17年間にわたる勉学を終えて帰国した後は多くの経典の翻訳に携わりました。

生涯に旅した距離は3万5千キロ以上(※地球一周は約4万キロ)、生涯に訳した経典は75部1335巻とされています。

玄奘が伝えた教えはその弟子慈恩大師による法相宗の開創につながり現在に続いています。

薬師寺は現在、興福寺とともに法相宗大本山であり玄奘を始祖として篤く崇敬。

玄奘三蔵院伽藍中央の玄奘塔には玄奘三蔵の頂骨が真身舎利として奉安され、須弥壇には玄奘三蔵訳経像が祀られ、そして大唐西域壁画殿には平山画伯の壁画が絵身舎利として祀られています。

薬師寺は、今回の龍谷ミュージアムでの「三蔵法師玄奘」展の主催者に名を連ね、国宝慈恩大師像、重文木造十一面観音菩薩立像、木造玄奘三蔵坐像など、数多くの宝物を出展すると同時に、展覧会の会期中、薬師寺僧侶による講話が毎日企画されていました。

我々がミュージアムに着いたのはちょうど講話が始まるタイミングでしたのでお話を聞かせて頂きました。

玄奘さん」の人物像、成し遂げられた事、教えのポイントなどを、自らの経験などもまじえて、小中学生の聴講者にも理解できるよう分かりやすく話して下さいました。

恥ずかしながら、「不東」という言葉について知ったのはこの時が初めてでした。

「不東」とは、インドへ達せずば東へ戻らず、という玄奘三蔵の気概を示した言葉で、一度立てた志を決して曲げることなく最後まで貫くことを意味しています。

国禁を犯して出国し一人砂漠の中を進む玄奘三蔵が、水の入った皮袋を落として水を失い一次引き返しかけた際、「自分は先に願をたててインドに至らなければ一歩も東に帰るまいとした。それなのに今なぜ引き返しているのか。むしろ西に向かって死ぬべきだ」と思い直して再び西に向かって歩を進めた、というエピソードとともにこの言葉を知りました。

薬師寺玄奘三蔵院の玄奘塔には、高田好胤薬師寺管主の筆による「不東」という二字の額が掲げられています。

薬師寺玄奘三蔵院の御朱印も、墨書で「不東」の文字と、玄奘三蔵が唐に経典を持ち帰る姿の御朱印です。

薬師寺玄奘三蔵院御朱印)

不東

この展覧会には「迷い続けた人生の旅路」というサブタイトルがつけられており、「多くの偉業に彩られた超人的なイメージの背後に隠された、ひとりの人間としての「玄奘さん」を見つめる」という趣旨で展示が構成されていました。

玄奘さん」の持つ6つの顔として、①「西遊記」の三蔵法師のモデル ②旅する人 ③卓越した翻訳家 ④辣腕の政治家 ⑤法相宗の鼻祖 ⑥「大般若経」の守護者 と紹介されていました。

この中で、"辣腕の政治家"という顔の説明に興味をひかれました。

天竺への旅において高昌国、西突厥、インドなどの異国の王たちからの援助を引き出し、唐への帰国後は太宗・高宗皇帝の心を掴み訳経プロジェクトを国家事業に仕立て上げたのには、世界情勢や人脈を見通す洞察力や、必要な物資や権力を絶妙のタイミングで引き出す交渉力など、逞しい政治力をも備えていたという説明でした。

玄奘さんの足跡は以下の「現代版五天竺図」に示されています。

(「三蔵法師玄奘」展のリーフレットから)

玄奘三蔵 大東西域記

玄奘さんが長安を発って天竺へ向け旅立ったのは627年、26歳の時。

 伊吾国までの孤独な砂漠行での苦難を乗り越え、高昌国で王の支援を得て旅を進める。

 天山南路・天山北路を辿って中央アジアの旅を続け、ヒンドゥークシュ山脈を越えてインドに至る。

 ナーランダ大学では戒賢に師事して唯識を学び、また各地の仏跡を巡拝しながら学問を修める。

 出国後19年を経て645年、44歳の時に祖国に帰国。同年長安の弘福寺で「大菩薩蔵経」の漢訳を開始。

 663年、62歳の時に「大般若経」600巻を訳了。

 翌664年正月、二十年に亘り執り続けた訳経の筆を置き、2月5日、弟子たちに見送られて63年の生涯を閉じる。

玄奘三蔵の遺骨は、唐の高宗皇帝の命によって長安の南郊外の興教寺に塔が建立され安置されましたが、唐末期の農民蜂起で興教寺塔は破壊され遺骨は行方知れずに。

時代が下り北宋時代に陜西の紫閣寺で玄奘三蔵の頭蓋骨が見つかり、内乱を避けて金陵(南京)に移されましたが、19世紀の太平天国の乱で塔が壊され再び所在がわからなくなります。

この玄奘三蔵の遺骨を発見したのは日中戦争さなかの日本軍。

1942年暮れ、南京郊外の小高い丘に稲荷神社を建てるために整地作業をしていた際に見つけた石棺の中から玄奘三蔵の頂骨を発見。

中国・南京政府との話し合いの結果、分骨して供養することとなり、一部が日本に持ち込まれました。

戦時中でもあり、頂骨は埼玉県岩槻市慈恩寺疎開し奉安され(1944年)、その後境内に建立された十三重の石塔に納められました(1950年)。

その後、台湾からの返還要請を受け分骨(1955年)。

そして、玄奘三蔵と深い縁のある奈良薬師寺への分骨の話も起きました。

1980年、慈恩寺の石塔を解体し遺骨が取り出され、翌1981年4月、薬師寺西塔落慶法要の結願の日に分骨・奉納されました。

玄奘三蔵院伽藍が出来上がるまでの間は宝蔵殿に仮安置されました。

現在は、玄奘三蔵院伽藍中央の玄奘塔に真身舎利として奉安されています。

平等院鳳凰堂 (永遠の場所 29)

京都・奈良旅行の二日目に、昨年、平成26年10月に平成修理が終わってよみがえった宇治の平等院鳳凰堂に行ってきました。

平等院鳳凰堂は前日訪れた三十三間堂以上に国宝が揃っている場所です。

四棟で構成される鳳凰堂、本尊阿弥陀如来坐像、52体の雲中供養菩薩像、天蓋、壁壁画、鳳凰一対、梵鐘というように、建築・彫刻・絵画・工芸の幅広い分野にわたって国宝に指定されています。

鳳凰堂は初めてのを訪問。

是非とも鳳凰堂内部の拝観もしたかったので、庭園に入れるようになる8時半前をめがけて行きました。

鳳凰堂内部の拝観は20分毎一回50名の定員制で、我々は9時半からの初回分のチケットを手に入れました。

9時半までは庭園からの眺めを楽しんだり、平等院のミュージアムである鳳翔館の宝物を見学。

平等院は末法初年に当たるとされる永承7年(1052)、関白藤原頼通によって父道長の別荘を寺院に改め創建されました。

当時は末法思想が貴族、僧侶らの心をとらえ、極楽往生を願う浄土信仰が社会の各層に流行していました。

翌年天喜元年(1053年)、阿弥陀如来を安置する阿弥陀堂が建立され、それが現在鳳凰堂と呼ばれています。

入り口を進むとまず藤棚があり庭園が始まります。

庭園入口側から望む鳳凰堂。 あいにくこの日の朝は小雨の降る天気でした。

平等院鳳凰堂

鳳凰堂を正面から望みます。

平成修理によって、外観については可能な範囲で平安末期から鎌倉時代に近づいたとのこと。

今回の修理は屋根の葺き替えと外部塗装を中心とした中規模なもので、塗装については、黄土を焼いて赤色系に整えた丹土(につち)で建物の下部まで完全に塗られました。

扉や出土品に残る顔料を調査した結果、創建から江戸時代までは丹土による塗装が繰り返されてきたことがわかったとのこと。

昭和の大修理での外部塗装は鉛丹を用いた建物上半分のみの塗装だったそうです。

今回は丹土色の外部塗装に加え、屋根瓦もいぶし銀を使わない「古色仕上げ」の濃い墨色にしたことで、シックな色調の外観になりました。

平等院鳳凰堂2

庭園にところどころ置かれた鉢では蓮が花を咲かせていました。

平等院鳳凰堂 蓮の花

2001年に開館した平等院ミュージアム鳳翔館で、国宝の梵鐘、鳳凰一対、26体の雲中供養菩薩像のオリジナルを見学しました。

梵鐘はもともと池のほとりに建つ鐘楼に懸けられていましたが、大気汚染による錆害などの保存上の見地から取り外されて鳳翔館に収蔵され、鐘楼にはレプリカが懸けられています。

平安時代を代表する梵鐘の1つで、竜頭が飾られ、鳳凰や踊る天人などが描かれています。

同じく、鳳凰堂中堂の大棟の南北両端に据えられていた鳳凰一対も、保存上の見地から取り外されて鳳翔館に収蔵され、新たに制作された2代目が大棟に載せられています。

平等院鳳凰堂 鳳凰

雲中供養菩薩像は、52体のうち、26体のオリジナルが鳳翔館に展示されていて、展示ガラス越しに間近に眺めることができます。

平成26年10月から12月にかけて東京国立博物館で開催された日本国宝展には2体展示されていました。

頭光(輪光)を負って飛雲に乗っているところは共通ながら、持ち物、動作は一体一体異なりそれぞれが個性を持っていて、26体をまとめて見るとそのバラエティの豊かさに驚かされます。

いずれも定朝工房で天喜元年(1053)に制作されたもので、鳳凰堂中堂内部に南北コの字形に阿弥陀如来を囲んでかけられています。

(拝観案内から)

雲中供養菩薩像 平等院鳳凰堂 

鳳凰堂の内部拝観で、本尊阿弥陀如来坐像を拝むことができました。

この阿弥陀如来像は、和様彫刻の完成者と呼ばれる仏師定朝の作であることが確実な現存唯一の仏像で、定朝が完成させた日本独自の寄木造りの造像法で作られ、平安彫刻の頂点とされています。

(拝観案内から)

阿弥陀如来坐像 平等院鳳凰堂内部 

伏し目がちで、優しく穏やかな表情をされています。

平等院鳳凰堂内部

胸をひいて背をわずかにまるめた姿勢には無理がなく、柔らかで優美な姿です。

箱型の「方蓋」と内側の「円蓋」の二重構造からなる天蓋は、唐草が透かし彫りされ、螺鈿と蒔絵と金工で装飾されてとてもきらびやか。木造というのが驚きです。

内部拝観後、鳳凰堂の正面から池越しに、改めて阿弥陀如来像を拝みました。

阿弥陀如来坐像 平等院鳳凰堂 

鳳翔館で国宝の宝物類の展示をじっくり見て、鳳凰堂内部を拝観し、改めて池越しに水面に姿を映す鳳凰堂の全容を望むと、当時の人々が鳳凰堂を地上に出現した極楽浄土ととらえていた心情が伝わってきました。

京都~観光バスツアー (永遠の場所 28)

夏休みに帰省した機会に、足を少し延ばして京都・奈良に二泊三日で旅行してきました。

夏の京都を子供達と一緒に路線バスと電車で観光するには限界があると考え、初日は観光バスを利用して、小学校の教科書にも載っているスタンダードな観光スポットを見て回ることにしました。

初日、京都駅には朝8時半に到着。

駅前の京阪バスの定期観光バスのりば窓口で支払いをしてチケットを受け取りバスに乗り込みます。

このツアーでは ①清水寺三十三間堂 ③嵐山 ④金閣寺 の四カ所を訪問、9時に京都駅を出発し15時過ぎに戻る6時間の行程です。

この日の乗客は50名を超え、補助席にも座っていました。

最初に訪れたのは清水寺

ちょうど「千日詣り」の時期に当たっていたので、本堂内々陣を特別に拝観することができ、また「千日詣り」のお札を頂くこともできました。

「千日詣り」とは、一日のお参りで千日分のご利益が授かるとされるありがたいものです。

思い切って大きな決断をすることの例えとして使われる「清水の舞台から飛び降りる」ですが、清水の舞台から実際に飛び降りた人は結構いたそうです。

バスガイドさんから、200件を超える飛び降りがあったが生存率は結構高かったとの説明を聞き、後で調べてみました。

清水寺のwebサイトの記事によると、江戸中期から明治維新直前までに未遂を含めて235件もの飛び降りがあった由。

地上約12メートル、4階建てのビルに相当する高さですが、生存率は約85%でかなりの人が命を落とさずにすんでいます。

飛び降りの理由ですが、自殺などではなく、清水の観音さまに一心に祈って飛ぶと命も助かり願いも叶うという迷信による、願掛けだったそうです。

清水寺 音羽の滝から舞台を見上げる

千日詣りをして清水の舞台からの眺めを楽しんだ後、本堂裏手の階段を下りて、清水寺の由来となった「音羽の瀧」の霊泉で、柄杓に汲んだ清水で清めて所願成就を祈願してきました。

次に訪れたのは三十三間堂

正式名は蓮華王院、南北にのびる本堂内陣の柱間が33あるため「三十三間堂」と通称されます。

もともとは平安後期に後白河上皇が、平清盛の資財協力を得て院御所内に創建したものですが、約80年後に焼失。

すぐに復興に着手し鎌倉期の1266年に再建されました。南北約120メートルの長大なお堂です。

本堂中央に安置されるのが国宝「千手観音坐像」で鎌倉期の再建時に湛慶が同族の弟子を率いて完成させたものです。

42手で"千手"を表わし、2本は胸前で合掌、他2本は腹前で組み合わせて宝鉢を持ち、残りの38本は脇手として左右に各19本ずつ、様々な持物を持っています。

坐像の高さは3メートル超、檜材の寄木造りで全体に漆箔が施されています。

(拝観案内から)

三十三間堂 千手観音坐像立像

坐像は左右各500、計千体の等身観音立像に囲まれています。

重文「千手観音立像」は前後10列の階段状の壇上に千体の像が整然と並んでいて、堂内が"仏像の森"と表現されるのも納得される圧巻な眺めです。

各像は、頭上に十一の顔をつけ、両脇に40手を持ちます。

124体はお堂創建時の平安期のもの、その他は鎌倉期に16年かけて再興された像です。

千体の観音立像の前には、国宝の「風神・雷神」と「二十八部衆」の30体の等身大の像が安置されています。

風神雷神の図像は中国由来で、日本における風神雷神の彫像としては三十三間堂のものが最古だそうです。俵屋宗達の『風神雷神図屏風』のモデルになっています。

風神・雷神とも足の指は2本。バスガイドさんが子供向けのクイズに出していました。

二十八部衆はその多くを古代インドに起源をもつ神々で、千手観音に従って仏教とその信者を守るとされます。

等身大の像ですが、背丈、体格、形相、着衣、持物も様々でバラエティに富んでいます。

三十三間堂は本堂、千手観音坐像、風神・雷神像、二十八部衆立像が国宝、千手観音立像が重要文化財という、ハイグレードな文化遺産です。

嵐山には昼食時に着き、各自が100分の自由時間で適宜昼食をしたり散策したりというプランでした。

我々は息子の興味に沿って、まず嵐電嵐山駅で嵐電の車両を見た後、JRの車両や嵯峨野観光鉄道トロッコ列車を見にJR嵯峨嵐山駅方面へ足を延ばしました。

その後、竹林の道へ。

嵐山 竹林の道

確かに風情のある小道ですが、この時期は観光客+人力車でごった返していて思うようには歩けませんでした。

大河内山荘前を通り亀山公園の方へ抜けてからは人通りが減り、マイペースで大堰川(おおいがわ)沿いに渡月橋の方へ戻りました。

最後の訪問場所は金閣寺

正式名称は鹿苑寺(創健者である室町幕府三代将軍足利義満の法号から二字を取った)ですが、舎利殿金閣」が有名なため、舎利殿を含めた寺院全体が金閣寺として知られています。

三層の楼閣建築で、初層は平安時代寝殿造りの"法水院"、二層は武家造りの"潮音洞"、三層は中国風の禅宗仏殿造で"究竟頂"と呼ばれ、三つの様式を見事に調和させた建物です。

初層は金箔を張らず素木仕上げとし、二層と三層の外面は全面金箔張り、三層は内部も床面を除き全面金箔張りで床は黒漆塗り、中央に仏舎利が安置されています。

舎利殿は昭和25年に放火により全焼、現在の舎利殿は昭和30年に復元・再建されました。

昭和61~62年に当時の費用で約7億4千万円の総工費を投じて大修復が行われ、以前の5倍の厚さの金箔で覆われ、漆の塗り替えや天井画の復元等が行われました。

子供達は金箔張りの金閣寺を実際に目にしてインパクトを受けた様子で、色々なアングルで写真を撮っていました。

金閣寺の内部拝観はできませんが、案内所に張られた説明書きで三層内部の写真を見て、息子が"中を見たい"と声を上げました。

金閣寺

バスガイドさんから"偉くて沢山お金を持っている人なら見せてもらえるかもしれないから頑張ってお金持ちになってね"と言われていました。

参道を進むうちに「一字写経」を受け付けているのを見つけ、家族四人で一文字ずつ写経し各自願をかけました。

京都駅には午後3時過ぎに到着。

炎天下でも体力を消耗することなく効率的に有名な観光スポットを回ることができたし、車中でのバスガイドさんの話も興味深く楽しかったので、大満足のバスツアーでした。

生物多様性センター~標本収蔵庫ツアー (センス・オブ・ワンダー 34)

生物多様性センターでの「生物多様性まつり2015」は、8月2日(日)朝9時からのスタートでした。

我々は9時30分からの標本収蔵庫ツアーの初回に参加したかったので、8時半をめがけてセンターに向かいました。

センターのスタッフの人達がオープニングの準備をしているのを見ながら、8時40分頃からセンターの入り口で開館を待ちます。

さすがにその日は開館時間までに入場を待つ人達の列ができていました。

開館と同時に9時半からの初回標本収蔵庫ツアーと11時半からの葉脈標本の工作体験に申し込みました。

9時半までは企画展示「日本の北と南、比べてみました!」で、説明員さんから、自分が拾ってきたというニホンジカの角の話について聞きました。

オスの鹿の角は毎年生えかわり、最初は枝角のない一本角、そして一叉、二叉と増え、三叉四尖(分岐が三つに先端が四つ)になってからは大きさ以外は変わりません。

まれに五尖目が出るものがあるとのこと、展示されていた標本の鹿の角を見ると五尖目が出ていました。

標本収蔵庫ツアーは定員20名の60分のツアーで、この日4回実施されました。

標本収蔵庫には約6万5千点の標本が収蔵されています。

交通事故等で死亡した動物を引き取ったり、収集者から寄贈を受けたり、生きた個体を捕獲・採集しない方法を優先しているとのこと。

又、害虫対策は、薬品類をなるべく使わず、人や環境に配慮し影響の少ない方法を組み合わせて、予防対策中心で実行しているそうです。

例えば、標本収蔵庫への入り口のドアの前に粘着力のあるシールを貼った板を置いて、標本に害を及ぼす虫が入ってきにくい構造にしています。

そして、入り口部分に緩衝地帯の空間を作り、手前のドアを完全に閉じてから奥のドアを開ける施策を採っています。

標本収蔵庫

収蔵施設の中には緩衝区域として作業室と燻蒸室があります。

外部に出した標本を含め、標本を収蔵庫に入れる/戻す前に、二酸化炭素を充満させた燻蒸室で燻蒸処理を行います。

乾燥系標本収蔵庫には標本棚が並び、棚の中に標本箱が並べられています。

箱の中の各標本のラベルにはバーコードが記載されていて、昆虫標本等は収蔵箱から取り出さずにバーコードを読み取ることができるため、標本閲覧作業による標本の破損を防ぐことができます。

蝶の標本箱ではそれぞれの蝶の表面と裏面が並べられています。

チョウ標本 バーコード

この部屋では、日本の各地の生態系に悪影響を与えている外来種について知ってもらうための、外来種のアクリル標本も色々見せてもらいました。

標本閲覧室では植物の標本を見せてもらいました。表と裏の両面が観察できるようにレイアウトされています。

植物標本

最後に見せてもらったのが特別収蔵庫。

防火対策が施された収蔵庫で、"お宝"がたくさん収蔵されています。

部屋に入るとまずジュゴン骨格標本が目に入ってきます。

ジュゴン環境省の評価では、"ごく近い将来における絶滅の危険性が極めて高い種"、CR(絶滅危惧IA類)とされています。

採集場所は熊本県

ジュゴン骨格標本

同じ並びにはアオウミガメの本剥製。"絶滅の危険が増大している種"、VU(絶滅危惧II種)です。

アオウミガメ標本

EW(野生絶滅)、"飼育・栽培下でのみ存在している種"であるトキの本剥製がありました。

純国産のトキは2003年に最後の一羽が死んで絶滅してしまいました。

生物多様性センターのデータベースによれば、この剥製のトキは1981年に新潟県両津市で採集されたものだそうです。

国産トキ標本

1999年の中国からの個体提供、繁殖成功後のトキの剥製もありました。

鳥の剥製で、羽を畳んだり首を折り曲げたりして棒の支えがついた、"仮剥製"というものも見せられました。

長さや大きさを測りやすいようにしているそうです。棚にはシマフクロウとタンチョウが収められていました。

タンチョウヅル標本

対馬に生息するツシマヤマネコの本剥製。ツシマヤマネコジュゴンと同じくCR(絶滅危惧IA類)です。

ミシマヤマネコ標本

こちらは奄美諸島固有の原始的なウサギ、アマミノクロウサギです。

EN(絶滅危惧IB種)、"IA種ほどではないが、近い将来における絶滅の危険性が高い種"です。

アマミノクロウサギ標本

そして、CR(絶滅危惧IA類)のシマフクロウ。北海道根室市で採集されたものだそうです。

シマフクロウ標本

子供たちも楽しめるようにところどころでクイズを出してくれました。

その一つに、剥製を作る際にその動物の骨が活用されているのは、頭、腰、手足のどの部分か?というものがありました。

答えは"頭"で、頭の骨が無いと顔の表情が自然に見えないため、ということでした。

手足などの部分は骨の代わりに針金を活用しているとのこと。

普段は見られない標本・剥製を見せてもらい、色々と興味深い話を聞かせてもらった、中身の濃い60分でした。

標本収蔵庫ツアーの後は、"ヤマネコ先生の特別講座"で話を聞きました。

7月中旬から開催されている"イリオモテヤマネコ発見50執念特別展"に絡めて、その日、環境省西表野生生物保護センターのアクティブレンジャーの方が来て話を聞かせてくれました。

11時半からは葉脈標本の工作体験に参加し、その後も押し花コースターづくり、間伐材うちわづくりをしているうちに午後になっていました。

一旦外に出て、センター周辺の自然散策路に持参したキャンプ用のイスを持ち出して簡単な昼食。

その後は、自然散策路を少し歩いた先にある山梨県富士山科学研究所に行き、同時開催の"富士山研まつり2015"を覗いてみました。

富士山研の方のプログラムを見ているうちに時刻は午後4時近くになっていて、帰途に就くことにしました。

朝から夕方まで、色々なものを見、色々なことを聞かせてもらった一日でした。